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二次言コンプレックス

ジャッジがリアクションする意義を正視する

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ジャッジがリアクションする意義を正視する

日本語調査型競技ディベート界隈において定期的に挙がる話題として「ジャッジは選手のスピーチにリアクションをとるべきなのか」というものがあります。ここでいうリアクションとは、選手のスピーチに対して頷く、あるいは首を傾げるといったように、今、目の前で展開されているスピーチが、ジャッジにとって「刺さる」ものであるかどうかを選手に察知してもらうことを意図した、非言語での物理的なアクションを指します。
ジャッジがリアクションをとることは、一般的な日本語調査型競技ディベート大会においては特段強く要請も制限もされておらず、界隈の文化としての性質が強いと思います(他の形式のディベート大会でどうなのかは存じません)。これは、競技ディベートの試合とは選手とジャッジの(特殊な形式での)コミュニケーションであるところ、ジャッジはその一環としてリアクションをとることが慣例的に認容されているものだと捉えることができます。「慣例的に」というのが肝で、そうであるからこそジャッジの間にもリアクションをとることへのスタンスに差異があります。私個人はそれなりの大きさでリアクションをとる部類のジャッジで、試合中に漏れ聞こえる選手の声から察するに、選手からもそのように認知されているっぽいです。これは、意図してそう振る舞っています。キャラを作っていると言い換えても良いでしょう。別に普段からオーバーリアクションを取って生きているわけではなく、日常生活ではむしろエレベーターに乗っている時の綾波レイくらい大人しくしています。
少なくないジャッジが、わざわざキャラ作りしてまでリアクションをとるようにしているのは当然そこに意義を認めているからなのですが、他方、ジャッジがリアクションをとることを否定的に捉える言説も散見されます。本稿は、その辺りについての私見を書き殴ったものとなります。

まず、少なくないジャッジが選手のスピーチにリアクションをとるのは、そのことがディベーターにより良い議論の提出を促し、試合の内容がより建設的になることを期待できるから、ということに尽きます。ディベーターが何か一つの論点について喋ったとして、明らかにジャッジの反応が悪かったら「ああこの議論はダメなんだな」と判断して、別の議論に移ることができます。ダメな議論を長々と話し続けていては、議論の内容はかみ合わず深化しませんが、次に移れば、良い議論により長い時間を使うことができる可能性が上がります。そうすれば、議論が充実し、より高次のディベート体験ができます。つまり「良い試合」を選手に体験してもらえるということです。
選手にジャッジの反応を観察させ、それに応じてスピーチ内容を調整させることを良しとするかについてはいろいろと意見がありますが、私は、そういう調整能力まで含めてディベーターのスキルとして評価して良いという立場です。それこそ現実世界においても、聞き手の反応を踏まえて話の内容を臨機応変に調整するというのはごく一般的に行われていることであって、これを「ディベート」の試合に持ち込むこと自体は不思議ではないと思っています。私も、転職してきた理由を職場の人に訊かれて「エヴァンゲリオンが完結したから」と回答したら怪訝な反応をされたので、すぐにそれを察知して話題を転換するなど、アドリブ力を利かせて対応したりしています。皆さんも、同じようなことはよくやっている筈です。

 他方、ジャッジがリアクションを取ることに対するネガティブな意見もしばしば挙げられます。これには大きく2つの論点があります。

1つ目は、リアクションをとることは選手に議論のヒント、場合によっては答えを教えているのと同じであり、それはジャッジの在り方として中立性・公平性を欠くといった話です。私は、実はこの意見には一定の説得力があると考えています。ジャッジはあくまで第三者の立場から議論に判定を下すことが仕事であって、その枠を超えるべきではないのだ、と言われたら、ハイそうですねという感じですよね。
それでもこの立場を私が採用しないのは、そもそも競技ディベートはジャッジが持つ裁量が非常に大きい競技なのだから、ジャッジ周りのことにあまりに厳格な公平性を求めるのはナンセンスなのではないか、という考えに依拠しています。
どういうことか。ディベートは、勝敗の判断にあたってのジャッジの裁量がとても大きい競技です。例えばサッカーや野球は、点数という極めて定量的な勝敗基準があり、点数を得られる条件も明確ですが、競技ディベートはそうではありません。ジャッジが試合中の議論を己の中のモノサシで測って、良いと思った方に投票するわけですが、どんな議論を「良い議論」とするかは、ジャッジによって性癖とでも呼ぶべき差異があります。ジャッジによっては「この人やたら肯定側/否定側に有利/不利にとるな…」というようなケースもあるでしょう。こういう評価基準の不確定性は、競技ディベートが極めて自由度の高いゲームであることから生じています。時間内なら何をどう喋ったって良いんですからね。

さて、こういう、同じ議論を出してもジャッジによって評価が変わったり、場合によっては片方のサイドに有利にも見えうる評価をされることもあるというのは、ともすれば「不公平」ですよね。しかし現実問題として「全てのジャッジは同じ議論を聴いたなら同じように評価しろ」とか「肯定/否定で明らかに公平になるよう判定しろ」とジャッジに求めるのは不可能です。むしろ、そういう不確定要素をどう織り込んで議論を構築するか、という楽しみもディベートにはある訳です。結局のところ、競技ディベートはジャッジが各自の「裁量」で判定を出すという性質上、ガッチガチの公平性を追い求めすぎてもしょうがないのです。
そうだとすると、ジャッジがリアクションをとることが中立性・公平性を害するという概念も、ジャッジの裁量という、競技ディベートに原理的に内在するある種の不公平性の範疇で処理できる程度のものであって、選手により良い試合をしてもらえるという利点を捨ててまで重視する程のことじゃない、というのが私の見解です。確かに、ジャッジのリアクションによって選手の提出する議論が変わった場合、それをジャッジによる中立性・公平性の毀損だと捉えることもできるとは思いますが、ジャッジが両サイドに対して同じ態度でリアクションを取るよう努めているのであれば、それはそれで公平だとも言えますし、その程度はやはりジャッジの「裁量」の範疇なのではないかと思います。
もっとも、ここは個々人のポリシーによるところが大きい領域で、より良い試合をしてもらえる効果よりも、中立性・公平性をより追い求め、重視すべきだ、という立場を当然あり得るとも思います。私はそうじゃないというだけです。

2つ目は、ジャッジの、特にネガティブなリアクションが選手への無用なプレッシャーになるという話です(本稿で個人的に本題として話したいのはこちらです)。
事実として、そういう面があるのは間違いないでしょう。特にネックになるのは、初心者ほどその弊害が大きくなりがちということです。試合に慣れていない人ほど、ジャッジのネガティブなリアクションにプレッシャーを感じやすく、しかも議論の評価も低くなりがちなので単純にジャッジからネガティブな反応を受ける機会も多いであろうことは想像に難くありません。特にNADEの大会は選手よりも圧倒的に年上のジャッジも多いわけで、初めて試合した中学生が、厳ついオッサンやオバサンから渋い顔をされたり首を捻られたりしたら、そらビビります。かくいう私もほんの少しだけ中高生より年上ですので、意図せずビビらせてしまっていることもあるかもしれません。さらに言えば、先に述べた、ジャッジの反応を見ながら提出する議論を調整する…ということを実践するにはそれなりにスキルが必要であり、中級者以上でなければ難しいでしょう。要は、初心者はジャッジがリアクションをとることの弊害には晒されやすく、恩恵は受けにくいということです。この点は、ジャッジを務める者は確りと意識すべきです。

では、この弊害をもってジャッジはリアクションを控えるべきなのかというと、私はそうは考えません。私は、上記のようなプレッシャーは、選手が「貴方の否定」と「貴方の議論の否定」とを混同していることに由来していると考えています。つまり、ジャッジにネガティブなリアクションをされることで、自分自身のことを否定されているかのような気持ちになってしまっているのではないか、ということです。しかし実際には「貴方の否定」と「貴方の議論の否定」は別物であり、また別物として扱うことができるようなマインドを選手に芽生えさせ、鍛えていくことこそが(特に日本において)競技(教育)ディベートを通してジャッジが果たすべき役割の本質的な部分であって、選手に与えるプレッシャーを理由にリアクションを控えるという行動は、その役割を放棄し、選手の成長を阻害しかねないのではないでしょうか。だって、「貴方の否定」と「貴方の議論の否定」を区別するマインドを持つことは、頭で理解するだけではダメで、実際に経験を重ねないと難しいのですから。ジャッジは「貴方の議論の否定」を受ける機会を、むしろ積極的に選手に提供すべきで、だからこそ、初心者に対しても(むしろ初心者に対してこそ)リアクションをちゃんととった方が良いというのが私見です。実際に、経験を積んだディベーターの多くは「むしろジャッジには積極的にリアクションしてほしい」と言いますよね。これは、先述した二者の区別を、訓練によってできるようになった結果でしょう。まさか、積極的にジャッジに人格否定されたい、と言っている訳ではない筈です。

そういうわけなので、私は「初心者に対してはリアクションを控えめにする方がよいのでは」といった意見にも否定的です。ただ一応言っておくと、私は初心者にも経験者にも全部の面でジャッジは平等に接しろ、と言っているのではありません。初心者に対する配慮は当然すべきです。ただしそれは、選手のスピーチの場以外で行われるべきです。例えば、明らかに実力差のあるチーム同士の試合だったら、慣れていない側のチームへのフィードバックを手厚くするとか、そういうのです。試合中のジャッジとしての振る舞いを、選手のレベルによって変えるべきではありません。
 まあ実際の所、私も自分の議論がジャッジに納得してもらえていなさそうな時はやっぱり焦りますし、ネガティブな気持ちになるわけで「貴方の否定」と「貴方の議論の否定」は、そう簡単に区別して割り切れるものではないというのは理解できます。しかし、ディベートという営みには、対戦相手からであれジャッジからであれ、自分の議論を否定されることはどうやったって当然付随してくるのですから、それで受ける苦痛は必要経費です。
教育としての競技ディベートが指向しているのもまさにこの辺りで、相手をリスペクトすることと、主張を否定することは両立するのです。ディベートというか、議論にまだ慣れていない人には酷薄に聞こえるかもしれませんが、そういうものだと思います。かつて「『批判なき選挙、批判なき政治』を目指」すとツイーヨして炎上した国会議員がいましたが、まさにこういう、批判することはそれ即ち人格否定であり悪いことなのだという価値観こそ、我々は積極的に否定していかなければいけないと思います。あ、政治の話しちゃった。

 とはいえ、ジャッジは「これは議論を否定してるだけだから!別に君のことを否定しているわけじゃないから!」という錦の御旗さえあれば何でもしてよいということではありません。要は「私は貴方が今話している議論を評価していない」ということが伝われば十分であって、例えば、ジャッジがスピーチ中の選手に向かって中指を立てたりとかしたら、それは議論の否定を通り越していてアウトでしょう。そこまでいかずとも、例えばペンを乱暴に投げたりするのは(昔はそういうジャッジもいたそうですが)、私は明らかにやりすぎだと思います。もし、そういった議論の否定を超えるような事態があったのならば、その時は大会のアンケートに苦情として書くなり、顧問の先生を通じて抗議するなりしてやれば良いのです。

そういうわけで「ジャッジにリアクションされると怖い」という人がすべきなのは、ジャッジにリアクションしないよう要求することではなく、議論の否定と人格の否定は別物だというマインドを持つことです。ジャッジも、特に初心者相手には、講評でそういうことに言及しても良いでしょう。「試合中ジャッジはいろいろリアクションをとるけど、あくまで皆さんの議論に対して反応しているだけで、それでショックを受ける必要はなくて、むしろ反応を見てスピーチを変えてやろう、くらいに思ってください」とかですね。

まあいろいろ書いたんですけど、ぶっちゃけ試合をやりまくればジャッジのネガティブなリアクションで受けるプレッシャーなんて減っていきますから、選手の方はとにかく経験値を積めばオールオッケーです。ジャッジの方は「貴方の議論の否定」の範疇を超えたフィードバックをしてしまわないよう、己をしっかり戒めなければいけないですね。気鋭の4コマ「へるしーへありーすけありー」を読むなどして心の平静を保つよう努めていきましょう。
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