NADE主催の競技ディベート大会の特徴として、コミュニケーション点(以下コミ点)の存在が挙げられます。各チームの優劣を評価するにあたって勝敗に次ぐ指標として用いられることが多く、この点数の高低によって上位の試合に進出できるかどうかが決定することも珍しくない、重要な存在です。
しかしながらその重要度の高さに反して、付けられた点数の意味を選手がよく理解できていないのではないか、と心配になる場面があります。後述しますが、コミ点は多様な評価要素をごちゃ混ぜにした総合点として採点されることが多いので、付けられた点数からその選手の長短を読み取ることは容易ではありません。そのことを選手が認識しないと、ジャッジから受けている評価を見誤ってしまう可能性があり、それは良くないわよねというのが、本稿の問題意識です。
元々コミ点は、アウトプット能力(滑舌、発音、言葉のチョイス、間の取り方など)に見合わない分不相応な高速スピーチを戒める意図で導入されたものだと聞きます(昔の話なので正確には知りません)。重要なのは、上記のような背景がありながらも、スピーチ内容を完全に度外視して純粋に「言っていることの聞き取りやすさ」だけで採点される訳では必ずしもないということです(私の知る限りでも、そのような基準だけで採点をしているジャッジは体感多くありません)。ここで
NADEのルールを参照してみると「話し方、スピーチの速度、議論の構成などを総合し、分かりやすいスピーチであったかという観点からコミュニケーション点を採点」するとされており、採点基準についてはジャッジにかなりの裁量が与えられていることがわかります。特に「議論の構成など」というのは、ハチャメチャな広域を包含する表現です。この点、当の
NADEのルール解説においても、コミ点を上げる方法として、議論の前提や関係性を明確にすることを挙げています。また、
愚留米氏はこれを「内容そのものは入らないけど、議論の内容が分かりやすさに反映された結果コミュニケーション点に加味されることはありうる」と表現しています。
もう少し具体的に、やや大袈裟な例を挙げましょう。ある立論担当が、スピーチ時間にいきなり自分の好きな萌え4コマ「死神ドットコム」について延々熱くスピーチしたとします。明朗で聞きやすく、なぜ死神ドットコムが素晴らしい作品なのかもよく伝わってきたとして、果たしてこれは競技ディベートの試合で求められるコミュニケーションを果たしていると言えるでしょうか?死神ドットコムを扱う論題でもなければ、誰もが不適当なスピーチだと思うのではないでしょうか。
そして、私はこのようなスピーチには、それがいくら聞き取りやすいものであろうが高いコミ点を与えるべきではないという立場です。どうしてそういう結論になるかと言えば、ディベーターに期待されるコミュニケーションを果たしていない、と考えるからです。ディベーターに期待される役割というのは(少なくともNADEの大会のルールでは)、パートごとにある程度決まっていて、そこから逸脱したスピーチをされては「分かりやす」くないということです。上記の例で言えば、死神ドットコムがいくら素晴らしくとも、どうしてそれをもって論題を肯定/否定できるかが不明だから「分かりやす」くないのです。
まあ、この例はいくら何でも極端ですが、しかしながら実際のところ、期待されるコミュニケーションを果たしているとは言い難いスピーチというのは、現実の試合においても散見されます。例えば「立論で述べている筈のことを『立論では述べていません』と主張する応答」「散々反論されたはずなのに、それに一切触れず自分たちの立論が丸残りしているかのように伸ばそうとする第二反駁」といった具合です。皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。応答者には「立論を援用して自分たちの立場を強調する」「立論の補足情報を追加してジャッジにアピールする」といった役割が、第二反駁には「それまでに登場した議論の総括や再整理をする」ようなことが期待されている筈ですが、上記の例はそれを果たすどころか、むしろ相手やジャッジを混乱させ、議論の正確・円滑な理解を阻害しかねません。これでは、コミュニケーションを果たしているとは言えないし、わかりやすくもないでしょう。
つまるところ、競技ディベートの試合では、好き勝手何を言っても良いわけではなく、期待されるコミュニケーションというものがあって、それに一定程度沿っていなければ、減点要素として取り扱われても仕方ないということです。ひとくちにコミ点と言っても「滑舌」「発声」といった物理的な要素だけでなく「議論構成」「論理的明快さ」といったような、議論内容と関係するような要素によっても加点・減点されうること、およびその妥当性はご理解いただけたと思います。
さて、ここまで見てきたように、コミ点には無数の指標が存在するわけなのですが、それぞれに個別の点数を付けることはできないので、コミ点というひとつの枠に全部押し込んで、総合点で採点する他ありません。現実的には「内容は明快でわかりやすくかったが、滑舌が悪いので間を取って3」「とても聞き取りやすいが、内容は意味不明でコミュニケーションになっていので、間を取って3」といったような形になります。
そして、コミ点を付ける上でジャッジがしばしば難儀するのは「滑舌や発生は十分な水準にあるが、内容面では褒められる点が無い」スピーチをされた場合です。この場合(ジャッジにもよりますが)、思うところはありながらも例によって「間を取って」3を付けたりするわけです。しかしながら3が付くと、ディベーターは自分がアカン内容のスピーチをしていることを自覚できない懸念があります。競技ディベートは議論の内容で勝敗が決まるゲームですから、ディベーターはスピーチの中身こそを何より重視してプレパしなければならないのですが、コミ点という指標は、滑舌や発生といった議論の評価の本質ではない部分で「誤魔化せて」しまうので、平均的な、まともなスピーチをできているかのように見えてしまう点数がつくことがあるのです。
「内容は明快でわかりやすくかったが、声が小さく滑舌も悪いので間を取って3」「とても聞き取りやすいが、内容は全く意味不明でコミュニケーションになっていので、間を取って3」の事例は、どちらもコミ点3点ですが、スピーチの評価は全く別物だということが分かると思います。評価が別物なのですから、当然、改善に向けての取り組み方も違って然るべきなのですが、点数だけを追っていてはここに気付くことができません。前者の人が、わかりやすいブリーフ作成に注力しても仕方ないですし、後者の人が、滑舌や発声の訓練をしてもコミ点は伸びません。要は、コミ点を基準に自分たちの置かれた現状を見定めたり、その後プレパの方針を決めるのは危険だということです。
まあ、ジャッジは、選手に目立った短所があれば大体講評で言及するので、ちゃんと講評を聞いていれば何とかなることも多いのですが、時間が無くて触れられない場合もありますし、主審と副審でコミ点が大きく異なる場合もあります。もし、自分に付けられたコミ点の意味が判然としないのなら、ジャッジにその点数を付けた理由を訊いてみると良いでしょう。単に点数を眺めるよりも、自分たちが取り組むべき課題が明確になる筈です。
一方で、取り組むべき課題がわかっていたとしても、取り組み方を間違えてはどうしようもありません。よく、試合後に選手から「コミ点を上げるにはどうすべきか」と質問されますが、ここには2段階の取り組み方があると思います。
1段階目は、発声や滑舌といったような物理的な問題点や、サインポスティングや間の取り方といった、お作法的な部分についての改善です。これらは、ある程度練習すれば比較的短期間でコミ点も改善する筈です。ですが、この練習で得られるコミ点はせいぜい3点までで、一定のレベルに達したら、それ以上読み練やスピ練をしても、率直に言って意味がありません。ディベートはスピーチコンテストではないので、とりあえず問題なく聴きとれさえすれば十分であり、「十分に問題なく聞き取れる」スピーチが「とても聞き取りやすい」になったところで、もしかしたらコミ点3が4になる可能性が無くはないかも…くらいの話でしかありません。貴重なプレパ時間を費やすにはタイパが悪すぎます。究極的には、ジャッジがストレスなく議論をとれれば何でも良いのです。
そこで2段階目の取り組み方になるのですが、ここまで来ると「コミ点を上げること」を目指してプレパするのは、私はナンセンスだと思います。何故なら「強い議論」と「(ディベート的な)コミュニケーションの観点で優れた議論」は、とりわけディベート甲子園フォーマットでの試合においては、多くのジャッジにとってニアリーイコールだと考えるからです(2回立論制やカウンタープランが使用可能なフォーマットでは、議論の構成や提出順等に別段の配慮が必要になる場面も想定される気がします。深く考えていませんが)。そして、強い議論とは、純粋にプレパを重ねた先に顕現してくるものです。よりよいブリーフ・スピーチを追求すれば自ずと議論は洗練され、論理的になりますから、そうすればジャッジも理解しやすくなり、コミ点も上がるでしょう。つまるところ、コミ点を上げたければ真面目にプレパをして、より論理的整合性に優れた議論を作ることが最終的には求められるということです。
それでも強いて言うなら、議論作りに能動的に参画するというのが大事だと思います。例えば応答がうまい人はなぜ上手いかというと、自分たちの議論を高い解像度で理解しているからで、それは、能動的に議論作りに参画することで達成されます。応答だけではなく他のパートもそうで、自分たちの議論の構成やギミックを理解していればこそ、明快なスピーチができるというものです。
長くなりました。こんなテーマで書いておいてなんですが、個人的には中高生ディベーターはコミ点を必要以上に気にしすぎている気がします。講評はあんまり聞いていなさそうな選手が、コミ点を発表すると目の色を変えてメモし始めるような風景も時々見ますが、それよりも議論がどれだけ評価されているか、どうすればより強い議論になるかを詳らかにすることの方がずっと重要です。ここまで述べてきたように、議論を磨けば自ずとコミ点は伸びるし、何より、ディベート甲子園含むNADEの多くの大会は、全部勝てばコミ点なんて気にしなくても上位の試合に上がれるんですから(バロット不足でJDA決勝に上がれない男の慟哭)。